キングダム 史実 始皇帝の生まれと幼少期
キングダム 史実 始皇帝の生まれと幼少期 秦の公子であった子楚(政の父)が当時、休戦協定で人質として子を趙へ送られた。政は、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」と呼ばれた。 しかし、父の子楚は公子とはいえ、20人以上の兄弟がおりそばめの子供であった。さらに祖父・安国君(子楚の父。後の孝文王。曽祖父・昭襄王の次男)は後継ですらなかった。 秦王を継ぐ可能性がほとんどない子楚は、昭襄王が協定をしばしば破り、趙に軍事攻撃を仕掛けていたことで、秦どころか趙でも立場が悪かった。子楚は、いつ殺されてもしかたがない身であり、人質としての価値も低かった。 そのため趙では冷遇されていたのである。 それに韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつける。 秦では、安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、趙では、子楚へも交際費を出資し評判を高めた。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束したのだった。 そのような折、子楚は、呂不韋のそばめであった趙姫を気に入り譲り受ける。 そして昭襄王48年(前259年)の正月に男児を授かった。 正月にちなみ「政」と名付けられたこの赤子が、 […]