キングダム 史実 始皇帝の生まれと幼少期

キングダム 史実 始皇帝の生まれと幼少期

キングダム 史実 始皇帝の生まれと幼少期

秦の公子であった子楚(政の父)が当時、休戦協定で人質として子を趙へ送られた。政は、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」と呼ばれた。
しかし、父の子楚は公子とはいえ、20人以上の兄弟がおりそばめの子供であった。さらに祖父・安国君(子楚の父。後の孝文王。曽祖父・昭襄王の次男)は後継ですらなかった。

秦王を継ぐ可能性がほとんどない子楚は、昭襄王が協定をしばしば破り、趙に軍事攻撃を仕掛けていたことで、秦どころか趙でも立場が悪かった。子楚は、いつ殺されてもしかたがない身であり、人質としての価値も低かった。
そのため趙では冷遇されていたのである。

それに韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつける。

秦では、安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、趙では、子楚へも交際費を出資し評判を高めた。子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束したのだった。

そのような折、子楚は、呂不韋のそばめであった趙姫を気に入り譲り受ける。
そして昭襄王48年(前259年)の正月に男児を授かった。
正月にちなみ「政」と名付けられたこの赤子が、後に始皇帝である。

死と隣り合わせの少年

政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。

だが曽祖父の昭襄王は子楚と政に一切の配慮をせず趙を攻め続け、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲。

そのため人質として趙側に処刑されかけた子楚だったが、番人を買収して秦への脱出に成功する。

しかし妻子を連れる余裕などなかったため、政と母の超姫は置き去りにされたのだった。

趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけることができなかった。

敵地のまっただ中で追われる身となったこの幼少時の体験が、始皇帝に怜悧な観察力を与えたと推察されている。

昭襄王は、邯鄲のしぶとい籠城に秦軍は撤退。

そして前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり子楚が太子と成った。

そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった政と母の趙姫を共に秦の咸陽に送り返した。

ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、紀元前249年に子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された。

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荘襄王(政の父)と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとしていった。

しかし紀元前246年、荘襄王は在位3年で死去。13歳の政が王位を継ぐことになる。まだ若い政を補佐するため、周囲の人間に政治を任せ、特に呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した。呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得て、多くの食客を養い、『呂氏春秋』の編集なども行った。